こんにちは!
クロスロードインターンのまえてぃーです。
今回は、旅行中に行きたいダークツーリズム(ヨーロッパ編)です。
“ダークツーリズム”とは、戦争や紛争、事故などの人災、また、地震や噴火などの自然災害などの悲惨な出来事に見舞われた跡地を訪ねることです。
そこで、犠牲になった人々を思ったり、被害の大きさや人類の過ちの大きさを感じることで、自分自身の生き方や価値観を見直すきっかけになるということで、現在人気の観光の仕方となっています。
まえてぃーは歴史に興味があったこともあり、行く先々で悲しみの歴史に触れる機会がありました。
“旅行中にそんな場所へ行くとテンションが下がる”
“そんな場所へ行く勇気がない”
“意識高いとか思われたくない”
そう思う人もいるかもしれません。
でも今、あえてその場所へ行く人が増えていることをご存知ですか?
1人の人間である私たち。
そしてその集合体である人類。
その人類が歩んだ歴史の中で、繰り返したくない、でも知っておきたい、感じてお
きたい悲しみの遺産。
比較的行きやすい、そんなダークツーリズム(ヨーロッパ編)をお届けします。
それでは参りましょう!!
アウシュビッツ強制収容所は、第二次世界大戦時、ドイツのナチス政権によって迫害されたユダヤ人やロマ人、障がい者、戦争捕虜などの人々が強制収容され、そのほとんどが虐殺された場所です。
本の「アンネの日記」、「夜と霧」。
映画の「シンドラーのリスト」、「ライフ・イズ・ビューティフル」の世界というとピンとくる人もも多いと思います。
当時、ヨーロッパを中心に20000以上の収容所が存在し、実に数百万人の犠牲者を出しました。
質素な食事、劣悪な環境、ゲームのように殺される生命。。。
希望を持つことは皆無、絶望しかないこの場所が現在でも残され見学することができます。
中でも最大規模の収容所がここ「アウシュビッツ・ビルケナウ収容所」です。
ポーランドのクラクフからバスで約1時間。
入り口に行くと無料で見学できることと、実に多くの人が世界中から見学に来ていることに驚くと思います。
収容所には誰が、何の目的で、どんな毎日を送っていたのかを、現存している資料や写真から知ることができます。
そして、彼らがどのように息絶えていったのかも。
このガス室から生きて出られた人はいませんでした。
殺人のためだけに作られたこの部屋。
出られたのは煙になった時だけでした。
でも、今を生きている私たちは生きて再び外に出ることができます。
空の青さ、鳥のさえずり、人々の声、、、その全てが今までとは違う景色となり、あなたに飛び込んでくる。
その空気を吸えた瞬間。
いつもあなたの吸う空気は少し、変わるかもしれません。
アウシュビッツについてもっと知りたい人はここへ!!
チェルノブイリ原発、聞いたことある人はいるでしょうか?
1980年代、旧ソ連のとある街チェルノブイリ(現ウクライナ)には、当時の化学力を代表する原子力発電所がありました。
その恩恵もあり、街は発展し遊園地やショッピングモール、人々は活気にあふれた生活を送っていました。
しかし、1986年4月26日、その全ての動きが止まります。
原子力発電所が“爆発”したのです。
世界最悪の原子力事故と呼ばれるこの事故は、広島・長崎に投下された原爆に匹敵するほどの威力を持ち、亡くなった人も多く、放射能に汚染された街に住むことは出来ず、数えきれないほどの多くの人が、避難という形で街を離れざるを得ませんでした。その数実に40000人以上。
廃墟となったチェルノブイリには、ツアーに参加することで誰でも入ることが出来ます。
私は、チェルノブイリは1つの街でそれほど大きくはないだろうと持っていました。
しかし、実際はチェルノブイリの中にはまた大きな街や村がいくつも存在しており、とても一日で周れる規模ではないということに驚き、その全ての人が避難し、放射能による後遺症を持った人も多いという事実に驚愕しました。
そして事故を食い止めるために戦った人々の多くが亡くなり、後遺症に苦しめられました。
発展の代償はあまりにも大きく、人類はどこに向かって進化していけばいいんだろうかと考えさせられます。
日本でも地震により福島の人々が原発により日常を奪われました。
ウクライナ(キエフ)の原発博物館では、事故に至るまでの詳細な説明や亡くなった人たちの遺品、後遺症を患った人々のその後などを知ることができます。また、それだけでなく、福島との復興を目指す繋がりを見ることができる展示もあります。
毎日使う電気、毎日に欠かせない電気。
そして、当たり前にある電気。
あなたの毎日の当たり前が少し、変わるかもしれません。
東洋の雰囲気と、西洋の雰囲気が融合する国、ボスニア。
日本での知名度は低いものの、ヨーロッパからは多くの観光客が訪れる場所です。
そんな東欧の小国ボスニアは、1992年~1995年にかけて民族紛争が起こりました。
当時のボスニアは、ユーゴスラビアに属し、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の3つの民族が暮らしていましたが、ユーゴスラビアから独立を決めたことで各民族間で争いが起こり始めました。
中でも特にセルビア人とムスリム人の関係は熾烈を極め、セルビア人はボスニアの首都であるサラエボを去り、ムスリム人の残ったサラエボは、周囲を山に囲まれた街で、その山々をセルビア人勢力に支配され、街の中に閉じ込められてしまいました。
それだけではなく、昼夜を問わず山から街をめがけて砲弾が飛んできました。
男も女も大人も子どもも“スナイパー”に狙われ、学校や仕事に行く途中、買い出しや犬に散歩中でさえ、狙撃の対象になり、街中に遺体が溢れました。
それから遡ること8年。
1984年、サラエボの首都ボスニアで冬季オリンピックが行われました。
歓喜に沸いた平和の祭典から一転。
街は血に染まったのです。
スナイパーに狙われるため遺体を回収できたとしても、郊外の墓地まで埋葬しに行くことは出来ません。
だから人々は近隣で埋葬できる場所を探しました。
そしてある場所が墓地として活用されたのです。
それがこのサラエボオリンピック跡地です。
市街地からはほど近くで、広大な土地がある場所。
それがオリンピック会場だったのです。
墓地に刻まれた日付は全て紛争があった4年間でした。
まえてぃーと同じ年に生まれた子もいました。
その子は12歳で時が止まっていました。。。
日本でも2020年、東京オリンピックが行われます。
もう来年!!ですね。
日本中がアスリートの雄姿に熱狂し、心打たれることでしょう。
でもその8年後の日本が、どんな姿を持っているのか。。。
そんなことを考えさせてくれる場所です。
ボスニアの歴史についてもっと知りたい人はここへ
紀元前70年。
今から2000年以上前。
イタリアの南部に「ポンペイ」という街がありました。
現在のナポリからほど近く、海に近い港町であるポンペイは、交易業が盛んに行われ、街は活気に溢れ、当時の最先端でした。
整理された区画や道路、ピザ窯などのファーストフードショップ。
オペラや観劇が行われる劇場。
運動をするためのジムやリフレッシュするためのスパ。
男女がラブラブする場所まであったんですから“古代なめんな”って感じです。
映画「テルマエ・ロマエ」の世界がまさにそこにはあったのですね!
しかし、ヴェスヴィオ火山の噴火によって街は壊滅。
押し寄せる火砕流により一瞬にして街は地中に埋もれたのです。
灼熱の空気に喉が焼かれ、呼吸ができずに息絶える人々。
愛しい人を守ろうと抱き合ったまま息絶えた人たち。
皮肉なことに火砕流は街と人の全てを飲み込み、時の中に閉じ込めました。
書物などによりこの場所にポンペイがあったということは知られていたそうですが、発掘調査が始まったのは19世紀に入ってから。
2000年以上の時を超えて、今私たちはそれに触れることができます。
“悲しみ”、というより“ロマン”!!
そんな古代へのワクワクを感じさせてくれる場所です。
いかがでしたか?
“悲しみの場所には必ず希望を見出すことができる”
そんなダークツーリズムを、あなたの旅の中に入れてみてはいかがでしょうか??