ジェノサイド。
『それはとある組織や国家が特定の民族や人種などの集団を意図的かつ計画的に絶滅させようとし殺戮すること』
こんにちは!
インターンのまえてぃーです。
今回のブログは、まえてぃー世界史「世界で起こったジェノサイド〜残酷なのはだれか〜」です。
世界一周するんだ!と聞くと、きれいな景色、素敵な出会い、美味しい食べ物と心躍る世界が待ってると思うと思います。
でも実は、そんな世界は人々が争い、憎しみ合い、目を背けたくなるような現実の上に成り立っています。
別に知らなくてもいいこと。
でも知ることで広がる世界がある。
いつもと違うシリアスな雰囲気。
「大人限定」で行なった今回の授業の様子。
ぜひ最後まで読んで下さいね!!
この線路に続きはない。
あるのは絶望という道のみだ。
第二次大戦中ドイツの政権を握っていたナチ党によって行なわれたユダヤ人迫害政策。
授業に参加してくれた多くの人が知っていた歴史。そして場所。
ここに連れて来られた人々を待っていたのは、『選別」。
そこで『価値なし」と判断された人々が行く先はガス室。
つまり待っているのは「死」のみだ。
今を生きている私達はガス室に入ることができ、その空気を感じ、当時を想像することができる。
助けてと叫んだのか。
苦しいともがいたのか。
愛する人を思ったのか。
人生を恨んだのか。。。
私は何を思うだろう。
あなたなら何を思うだろう。
人体実験ではマラリア菌を体内に入れられたり、極寒の中外に放り出され、その後蘇生をするという行為を繰り返された。
双子は臓器の交換などがされたという記録が残っている。
私たちと同じ「人間」が行った行為だ。
今から約70年前を私たちは遠い記憶とし関係無いものと考えるのか。
静かな教室の空気が重かった。
カンボジアという国は、アンコールワット遺跡を一目見ようと観光客にも人気の国だ。
その国の大地に降り立った時、あなたは力に驚くだろう。
その「若さ」という力に。
1970年代。
政情不安によりカンボジア内は混沌としていた。
それを一つにまとめたリーダーがいた。
彼の名前は「ポル・ポト」。
彼の樹立した政権「クメールルージュ」が新しい国家の歩みに求めたもの。
「原始共産主義」
農民こそが真の国民で、医者や弁護士、教師や留学経験者などは必要なしとされた。
「知識人」だから。
知識を持っている人は新しい国づくりには邪魔になる。
でもむやみに殺すことはできない。
ならば「罪」をつくればいい。
「拷問」という非人道的な行為。
いっそ罪を認めてしまった方が楽だと感じる世界。
爪を剥がれ、斧で足を切られ、糞尿の中に沈められ、罪を認めろと言われ続ける。
そして彼らはサインする。
自分の罪と処刑を、認めるサインを。
知識人の範囲は日に日にエスカレートした。
メガネをしている、賢こそうだ。
容姿端麗だ、風紀を乱す。
手が柔らかい、農業をしていない。
疑わしければ誰でも良かった。
疑わしくなくてもスパイかもしれない。
恐怖の時間が終わった時、人口の80パーセントは14歳未満だった。
国に生まれ、国に殺される。
考えられないことが、いつの間にか起こっていた。
果たしてそれは、私たちには永遠に訪れない未来だろうか。
1990年代。
科学が進歩し、経済は不況とも言われながらも、日本は豊かな国となっていた。
ルワンダはアフリカ中央にある小国だ。
その昔、アフリカ大陸の各国は、ヨーロッパ各国の植民地として支配されていた。
ルワンダもその一つだ。
ベルギーに支配されていたルワンダ。
彼らを支配するのは「彼ら自身」だ。
ベルギー人と背の高さ、鼻の高さ、肌の色などが似ている人はベルギー側民族のツチ族として優位な生活をし、支配される側のフツ族に別れた。
元々は同じ民族だ。
ベルギーが撤退し、独立を果たしたのもつかの間。
待っていたのは。
「民族紛争」
支配されていたフツの怒りが爆発。
100日で100万人が殺されるとの異名を持つほどの凄惨な時間が待っていた。
このムランビ虐殺メモリアルは、この出来事を象徴する現場の一つだ。
「丘の上にある学校のこの場所に避難すれば大丈夫だ」
避難のアナウンスがあった。
街中に転がる遺体。
指を切断された子ども。
頭を斧で割られた女性。
どこにいても地獄でも、少しの希望を持ちたかった。
生き延びる可能性があるのなら。
「すがりたかった」
しかし、避難した先で待っていたのは。
一夜にして4万人が殺されるという悪夢という時間だった。
あなたは想像できる。
ここで何があったのかを。
しかしここで想像は必要ない。
あなたは触れることができるから。
当時の彼らに。
メモリアルの各部屋にはベッドが並んである。
そしてそこに横たわっているのは、殺された彼らの遺体。
殺さないでと手で顔を防いだ姿。
恐怖に怯える悲痛な顔。
子どもを抱きしめたままの母親。
山積みの遺体。
大人も子どもも赤ん坊も関係ない。
体にまとわりつく死の香り。
彼らの生きた最後の姿は。
生まれてきて良かったと言えるものだっただろうか。
命の尊さとは何かを、彼らの前で言えるだろうか。
とてつもなく大きな沈黙という時間に。
閉じ込められたような気がした。
1992年〜95年。
ボスニアで起こった民族紛争は、20世紀最大にして最悪とも言われる。
ルワンダの内戦と時を同じくしてとのことに憤りを感じる。
旧ユーゴスラビアから独立を掲げた際に勃発したセルビア人とボスニャック人の争い。
首都サラエボからはセルビア人は消えた。
そしてサラエボにはボスニャック人が残った。
サラエボを囲むように存在している山々には、敵対勢力であるセルビア人が常駐し、24時間狙われる生活が始まった。
学校へ行く時。
会社へ行く時。
水を汲みに行く時。
友達に会いたい時。
全てが。
命がけだった。
人の高さに残る銃弾の跡は、「銃」なんてものではなくロケットランチャーなど一撃で建物を破壊することができる力を持っていた。
一発を撃たれるたびに飛び散る血しぶき。
助けようとした瞬間にまた飛び散るだろう。
地獄のような時間が実に4年も続いた。
虐殺の現場のスレブレニッツァはサラエボからバスで3時間ほどにある小さな村だ。
そこはセルビア人勢力が今にも押し寄せて来そうな危険な場所。
オランダ軍を中心とした国連軍も治安維持のために派遣されていた。
しかし。
抑えられない敵対勢力の怒り。
私たちは無力だと書かれた壁の落書き。
去っていく国連兵。
そして残されたボスニャック人たち。
残されたボスニャック人は分けられる。
成人以上の男子か。
それ以外かに。
彼らは察する。
「男たちは、殺される」と。
このスレブレニッツァメモリアルは工場が隣接されている。
ここがまさに。
8000人以上の男性が一度に命を奪われた場所だ。
男は何を思っただろう。
男の帰りを待つ家族は何を祈っただろう。
きっと。
「生きたい」
ただそれだけではないだろうか。
「この写真を見ておくれ」
工場の扉を開けくれた男性にそう言われて見た写真には。
男の帰りがないことに絶望した女性が首を吊っている姿だった。
残虐な歴史は。
目を背けたくなるもので。
自分の旅には必ずしも必要ではない。
でも。
全ての残虐な歴史に共通していることがある。
それは。
「乗り越えた」
という歴史があるということ。
あなたは知っているだろうか。
カンボジアの若者たちが、戦争復興を成し遂げた日本のようになりたいと日々切磋琢磨し努力していることを。
あなたは知っているだろうか。
アウシュビッツにはドイツやポーランドだけでなく、全てのヨーロッパの学生が「平和」と「共存」を学びに来ていることを。
あなたは知っているだろうか。
ルワンダは今「奇跡の国」と言われ、アフリカで一番平和な国と呼ばれていることを。
あなたは知っているだろうか。
ボスニア紛争時子どもだった若者たちが、博物館を開き、今まさに子ども時代の思い出が戦争となってしまっている子どもたちのことを広める活動をしていることを。
あなたは知っているだろうか。
今そこで生きている人たちが。
「笑顔」でいることを。
あなたは知っているだろうか。
今そこで生きている人たちが。
「知ってほしい」と。
私たちを待っていることを。
彼らの「歴史」が。
あなたの「旅」に。
あなたの「人生」に。
あなたの「不安」に。
あなたの「迷い」に。
あなたの「いのち」に。
「勇気」と「色」を与えてくれますように。