【最終回】世界一周中に行きたい悲しみのダークツーリズムアジア3選③ - フィリピン留学・セブ留学|英語学校 - CROSSxROAD
2019.05.02

【最終回】世界一周中に行きたい悲しみのダークツーリズムアジア3選③

こんにちは!

クロスロードインターン生のまえてぃーです。

今回は前回に引き続き世界一周中に行きたいダークツーリズム3選(アジア編③)、アジア編は最終回です!!

 

さてみなさん、この木をご覧ください。

 

 

 

これは私たちが生活している「クロスロード」に生えている木なのですが、まえてぃーはこの木の前を

通るたびに喉元が“キュッ”とします。

 

それを頭に入れたまま、最後まで読んでもらえたらと思います。

 

ダークツーリズムとは

“ダークツーリズム”とは、戦争や紛争、事故などの人災、また、地震や噴火などの自然災害などの悲惨な出来事に見舞われた跡地を訪ねることです。

そこで、犠牲になった人々を思ったり、被害の大きさや人類の過ちの大きさを感じることで、自分自身の生き方や価値観を見直すきっかけになるということで、現在人気の観光の仕方となっています。

まえてぃーは歴史に興味があったこともあり、行く先々で悲しみの歴史に触れる機会がありました。

“旅行中にそんな場所へ行くとテンションが下がる”

“そんな場所へ行く勇気がない”

“意識高いとか思われたくない”

そう思う人もいるかもしれません。

でも今、あえてその場所へ行く人が増えていることをご存知ですか?

1人の人間である私たち。

そしてその集合体である人類。

その人類が歩んだ歴史の中で、繰り返したくない、でも知っておきたい、感じてお

きたい悲しみの遺産。

比較的行きやすい、そんなダークツーリズム(アジア編③)をお届けします。

それでは参りましょう!!

 

カンボジアという国

今回ご紹介したい場所は“カンボジア”

カンボジアでは1975年~1979年の間、国家による国民の大量虐殺の歴史がありました。

しかも同民族によって。

当時800万の人口に対し、300万人の国民が殺されたのです。

そして虐殺が発覚しその歴史に幕を閉じた時にはカンボジアの平均年齢は“14歳”まで下がっていました。

 

カンボジアの歩んだ歴史

カンボジアは古くからフランスの植民地でした。

それが第二次世界大戦中、私たち日本がフランスを追い出し、カンボジアを統治し始めましたが、敗戦により撤退。

再びフランスが植民地化しようとしましたが、当時の王様「シアヌーク」を筆頭にフランスに立ち向かい、ついに1953年、カンボジアは社会主義国として独立を果たしました。

 

しかし前回お伝えしたアメリカ対ベトナムの戦争、“ベトナム戦争”が勃発。

 

カンボジアとベトナムは大陸で繋がっているので、ベトナムで戦争が起こっていると、カンボジアにも被害はあるわけです。

しかも、独立を果たした時、カンボジアが選んだ土台はアメリカの反対の社会主義。アメリカとしてはアジアで社会主義の国が増えたら面白くありません。

 

ベトナムとの国境付近に位置するカンボジアの農村地帯にもアメリカの空爆があり、多くの人が亡くなっていきました。そしてベトナム戦争が終結しても、カンボジアは混乱を極め内戦状態。貧困や飢餓も合わさって、国民たちは疲弊しきっていました。

殺人組織の登場

そこで現れたのが「クメール・ルージュ」という共産主義を掲げた政治組織です。

クメールはカンボジア人のこと、ルージュは共産主義のイメージカラーの赤。だからクメールルージュと言います。

そして、そのリーダーの名がポルポト。

彼はフランスに留学経験があったり、強いリーダーシップを発揮し、まさしく国民にとっては希望でした。人々は新しい政権に歓喜します。

 

これで平和になる。これでご飯も食べられる。これで夜も眠れる。と。

 

しかし、カンボジアの人たちにとってこれは悪夢の始まりでした。

クメールルージュが掲げていた政策は徹底した「原始共産主義」でした。

クメール・ルージュが求めた理想は、原始時代だった

原子共産主義。

そこには経済なんて必要ない。

経済があるから競争が生まれ、争いが起こる。

利益は個人のものではなく国家のものとし、全ての階級も廃止。

つまり、農業のみで国を成立させ、農民こそが真の国民という考え方です。

原始時代に還るという感じですね。

 

そしてそこには知識を持つ国民は必要ない。

なぜって?

「農民こそが真の国民」であり、知識を持つ国民は争いを呼ぶ。だからいらない。むしろ危険人物。

じゃあ今いる知識を持つ人々はどうするの?

・・・

殺せ(処刑すれ)ばいい”

次々と逮捕されるカンボジアの知識者たち

知識を持つも人々とは主に公務員、教師、医者、法律家など、国づくりに物を言いそうな職業の国民のことを言い、片っ端から捕えていきます。

が、罪もないのに処刑することは出来ないので、『無い罪をあるものにするため』に、まずは徹底した取り調べを行います。

その場所が、「トゥールスレン虐殺博物館」です。

 

 

トゥールスレンで行われたのは取り調べという名の拷問。

 

罪を疑われた段階で“決定”しているのですから、あとは本人に認めさせるのみです。

収容された人数はおよそ20000人

うち、この場で死ぬこともなく、処刑場に送られることなく、生きて出てこれた人数はたった14人でした。

 

元々は子どもたちが通う高校でした。

 

ここに連れてこられた知識人やその子どもなどの家族(共犯とみなされる)は、連行され、尋問という恐ろしい拷問を受けました。

  • FBIのスパイだろう
  • 政権に対して不満を述べただろう
  • 仲間がいるのだろう

など。

 

動けないように手足を固定され棒やナタで殴られ切られ、爪を折られ、骨を折られる。。。

 

あなたなら“耐えられますか??”

 

そんな拷問を何度もここに連れてこられた人たちは受けていました。

 

“認めてしまったほうが楽なのではないか…”

 

多い人は1日に3回もこのような拷問を受けなければなりませんでした。そして、拷問を受けない間、閉じ込められる場所も狭く暗い場所でした。

 

教室が拷問場となり、拷問中に息絶える人々も多かった。

教室を区切り人々は狭い小部屋に収容された。そして、その日から名前ではなく番号で呼ばれるようになった。

日々拡大していく“知識人”という処刑

知識人の範囲は日増しに拡大していきます。

  • 眼鏡をかけている(知識があるに決まっている)
  • 手が柔らかい(農作業に従事していない知識人に決まっている)
  • 外国に行ったことがある(外国のスパイに決まっている)
  • 恋人がいる(風紀を乱すに決まっている)

 

そして容姿端麗というだけでも連行の対象になり、知識人の家族だ、親戚だ、友人だ、近隣に住んでた、噂があった、名目なんてなんでもよかった。

 

ただ、捕え、拷問した。

 

 

そして、耐え切れなくなり、してもいない罪を認め、自分の処刑のサインを、自分で記入するのです。

 

思い出してください、この場所は元々は高校でした。

そう、命を伸ばし育む、“学校”だったんです。

生徒たちの笑い声、真剣な表情。時には悩み、ケンカをしたこともあったでしょう。でもその全てが、人生において大切な時間だったであろう学校です。

 

それが、国によって国民を苦しめる場所に変わったのです。

 

そして、処刑が決まった国民が次に連れていかれた場所が、「キリングフィールド(処刑場)」です。

 

処刑のためだけの場所、キリングフィールド

 

この穏やかな場所をご覧ください。

 

こここそが、拷問された罪のない人々が運ばれ“処刑”された“キリングフィールド(処刑場)”跡地です。

 

ただ殺されるためだけに運ばれ、自分の想いも、願いも言うことも出来ず、残虐な方法で殺されていきました。

 

これはカンボジアによく生息している木なのですが、枝がとても固く、鋭利にできています。

連れてこられた人々は、まずこの鋭利な「枝」を使って喉をかき切られます。

 

叫び声をあげられないように。

 

 

そして、費用がないため銃弾などの使用を控え、処刑には斧やナタなどの農業器具が使われました。

 

つまり、処刑されると一言で言っても、“一撃”で死ぬことはできないのです。

ここでもまた何度も痛み、何度も苦しみ、何度も生まれたことすら呪った彼らの命と人生は、ボロボロの限りを尽くされ、奪われていったのです。

 

冒頭にお見せしたクロスロードに生えている木と同じものです。

 

ぜひクロスロード留学中には一度、その木の鋭さに触れてみてください。

 

次はこちらの木をご覧ください。

その名も“キリングツリー”

 

実は、この木には、生まれて間もない赤ん坊や幼児が、足を持たれ頭を木に打ち付けられて殺されていった木です。

しかも母親の目の前で。

 

想像してください。わが子じゃなくていい。まえてぃーも子どもはいません。

 

でも道行く子どもが、抵抗も、犯行も出来ないヨチヨチ歩いている子どもが、頭を木に叩きつけられて死んでいったのです。

楽しいことも悲しいことも、人生の喜びも何もかもまだ知らないうちに、血を流しながら死んでいく。

痛かっただろうな。

止めてほしかっただろうな。

たくさん泣いたんだろうな。

助けてほしかったよね。。。

そしてそんな我が子を助けられず、ただ見させられる母親。

そして自らも兵士たちによって強姦され、蹂躙という蹂躙の限りを尽くされ殺されていきました。

 

想像できますか??

 

1970年代といえば、日本という国では、戦後復興の元に大阪万博が開催されたり、マクドナルドをはじめファーストフードやファミリーレストランが沸き上がり、日清カップヌードルが発売されたり、

上野にパンダがやって来たり、コンビニができたり、キティちゃんが登場したりでイケイケの時代に、カンボジアでは意味もなく子どもが殺されていったのです。

今からたった40数年前です。

 

教科書では学ばない。でも学んでほしいことがある。

ポルポト政権のことは教科書に書かれてあったとしても、その政権によってこのような行為が行われていたという事実はほぼ記載されていません。

 

教科書では学べない。学校でも学べない。

 

でも、“旅”でなら、この歴史と出会うことができ、知り、学ぶことが出来るのです。

 

子どもを“使う”のか“育てる”のか

そして、注目すべきは誰が拷問や処刑という行為を行っていたのか。

 

驚くべきことに、拷問や処刑を行っていた人間の大半が13歳程度の子どもでした。

なぜって??

 

子どもはまだどんな思想にも染まっておらず、教育も受けていない。

つまり、この状態こそがポルポトの理想であり、自らの思想に染めやすかった存在なのです。

 

  • 自分たちは正しいことをしている。
  • 国のためになることをしている。

 

そう考えることで、拷問も処刑も、正当化できる正しい行為だったのです。

たとえその対象が、自分の親や友人であったとしても。

 

「罪人を逃すことは、罪のない人を裁くことより重罪だ」

 

ポルポトの言葉だそうです。

”教育”とはいったい何なのか?

みなさん、教育って何のためにあるんでしょうね?

国って、何のためにあるんでしょうね?

私たちが生きるのって、いったい何のためなんでしょうね。。。

 

少なくとも、殺したり、殺されたり、こんな狂気的な経験をするために生まれてきたんじゃないって思うし、思い続けたい。

 

まえてぃーは元・先生です。今まで自分がしてきた教育という行為が、一歩間違うととても恐ろしい未来をもたらしてしまうということに恐怖を感じました。

 

ポルポト政権終了時、国民の全人口の85%は14歳以下の子どもでした。

いかに多くの国民が犠牲になったのかが分かりますね。

生き残った数少ない大人と、多くの子どもたちと若者たちが、この国カンボジアをこれまで支えてきました。

 

風化する歴史と伝えたい歴史

カンボジアでは先生が足りません。

今でも学校は午前チームと午後チームに分かれ、半日だけの授業しかなく、体育や音楽の情操教育はほぼありません。先生たちが殺されてしまって、先生がいないのです。

 

そして、これらの負の歴史についても学ぶ機会や場所はあるけれど、今の子どもたちは実感が湧かないことも多いそうです。

 

とある先生が話してくれました。

 

トゥールスレン虐殺博物館やキリングフィールドに見学に行ったとしても、事実と受け入れることができずに“冗談でしょ”と聞き流す子も多いそう。

 

なぜかって??

 

事実を知る人の多くはその時に殺されて、すでにいないからです。

 

経験した多くの人が亡くなっているので、実感として学ぶことが難しいのです。

 

悲しみの歴史を忘れさせてしまうことは、未来に生かすチャンスを失わすということ。

 

それはつまり同じことを繰り返すということにも繋がります。

 

しかも、誰も気づかぬうちに

 

日本で生活していると、国や政治に無関心でもさほど影響は感じません。カンボジアのような道を辿るとも思えません。

 

でも実際、日本が戦争中は選挙権は25歳以上の男子しか与えられていませんでした。

 

  • その中で徴兵されたのは?
  • 特攻で散っていたのは?
  • 沖縄のひめゆりで死んでいったのは?

その多くが選挙権のない若者たちでした。

 

国に物言えぬまま、国のために死んでいった時代が私たちにもあったのです。

 

国と私たち国民の関係…。

そんなことを考えさせてくれるこの「キリングフィールド」。

 

ぜひ、カンボジアに来た際は、この教科書には載らない歴史に会いに来てください。

 

首都プノンペンから最大のキリングフィールドへはトゥクトゥクで約30分で行ける距離だ。

 

おわりに

ダークツーリズムアジア編、いかがでしたか??

グローバル化が進む中、日本の少子化や労働人口の減少も伴い、日本にもたくさんの外国人が居住するようになりました。

その中でもちろん多いのは、アジアの人々です。

 

私たちは島国ゆえ、あまり共通意識を持つことはないかもしれませんが、過去の歴史を知るだけで、共存し、そこから築ける新しい絆があるということ、そして未来があるということの可能性を知ってもらえたらと思います。

 

さて、次回はどんな記事に思いを馳せるか。。。

ご期待ください!!

 

過去の歴史たちは私たちに教えたりはしない。

ただそこにあった事実だけをじっくりと残し、私たちを試している。

この記事をかいた人

元高校世界史教師のまえてぃー(由来 : 前川teacherの略)。 TOEIC330点でも恐れることなくアジア→中東→ヨーロッパ→アフリカを教科書片手に周遊し、世界の歴史をたどる歴旅中。 現在50カ国の旅を完了。イランに恋する中、ここクロスロードにたどり着きましたε-(´∀`; )